私の女子力が向上する時

女子力向上する時って人によって違うと思うんだけど。
全女子があてはまるであろうお気に入りの男子への
情熱は置いといて・・・

 私個人の女子力が向上する瞬間。

 それは何でもかまわないけど。。。例えば憧れのお高いバッグ。
それを頑張って買ったとして・・・。
頑張った分・ムリした分、懐は木枯らし吹きすさぶ・・・
でもやっぱり気持ちは快晴☆
そのバッグにつりあいのとれる自分になるべく
ヘアメイク入念・服装要チェック・ネイルだってキレイに。
スキンケアまでいつもより頑張る。
全ての力をマックスでバッグに向けて注ぎこむ。
自己満足の世界かもしれないけど、その時ってたまらなくルンルン♪


 

 それは私好みのカッコいい雰囲気を纏ったオシャレ女子を見た時。
例えていうなら真矢みき的な(カッコいい・キレイ・気高い・憧れます!)もうちょっと自分に年が近い時が多いけど。
何か自然にハッ!!としちゃう。
「自分、このままじゃあかんわ!!」みたいなさ。


 でもいつだって好きな特別な誰かのために
女子力向上し続けたいと密かに願う私なのです。

おじいちゃんのゴーヤ畑

 昨日6/28はおじいちゃんの一周忌法要だった。
私の両親は愛媛の弟の所へどうしても行かなければならなかったので
私が一人で行った。いつもは父の運転でおじいちゃんの家へ
行っていたけれど、珍しく電車とバスで行った。
バス停から坂を上がり、長い長い一本道を暑い中ずっとずっと歩いていた。
すると、おじいちゃんが長年世話をしてきた家庭菜園が見えてきた。
家から道路をはさんだすぐにある小さな畑。この時期は沖縄出身の
おじいちゃんはゴーヤなどをたくさん植えていた。

 ゴーヤはヘチマみたいにつるが伸びる。だからフェンスのようなものを
手作りで器用に作ってつるをはわせていた。ところが遠めに見えるその畑。
いつもならバッ!!と草木の色が目に飛び込んでくるほどに生い茂っているのに
今年はすっごくこじんまりとしていて驚いた。

 家に入ると私以外のメンツは勢ぞろいしていた。
お坊さんのおつとめも終わり、何てことない話を親戚同士でした。
私はどうしても気になったので、その畑の事をたずねた。
すると父の姉である超しっかり者のおばさんがこう答えた。

「あのおじいさんは決して自分が野菜を好きな人ではなかった。
でも、孫が喜んでくれるからと思って毎日暑くても寒くても
一生懸命畑を耕したり、水をやったり肥料をやって一生懸命
世話をしていた。だから実も大きくて立派だった。
でも今はおばあさんが一人でやっている。
おばあさんはこんなことしたって孫は家に来ないし、誰も喜ばないのに
何でこんなことしなければならないの、と思いながらやっているから
実も小さいし数も無い。作る人の思いとパワーが野菜にも反映されるのよ」

 私はこの言葉にものすごくショックを受けた。
思えば私はおじいちゃんにありがとうの一言でも言ったことが無い。
正直、作りすぎて余ったからもらっていたくらいに思っていた。
おじいちゃんの思いやりに対して、私の冷たさが憎かった。
初めて知ったおじいちゃんの思いに私はただただ胸が痛むだけだった。
おじいちゃんはゴーヤとか野菜が大好きなんだと思っていた。
たまねぎだのじゃがいもだのきゅうりだのいろいろと。
思えば季節ごとの野菜をくれていたのに。

 ああ、本当に去年亡くなった時もおじいちゃん孝行を一切してこなかった
ことをどれだけ悔やんだことか。未だにそれをふとんに入ってから思って
涙で眠れないこともあるのに、またその念が強くなってしまった。

 本当に自分の最低さをあえて正直に記しておこう。
私はおじいちゃんのお見舞いに行くのが本当に面倒だった。
友達と約束があるのにその前に父に
連れられて見舞った。パパッと済ませてすぐに友達の所へ行っていた。
言い訳だけど、私はこの年まで身近な人が亡くなることが無かった。
本当にいつまでもおじいちゃんもいてくれるような気がしていた。
だから人の死というものが実感できなかった。この入院が最期だ、と
分かっていたのに心のどこかでそんなこと無い、と。

 今、入院中の事をいろいろ思い出す。
何人かいる孫の中で明らかに私を一番かわいいと思ってくれていた。
それは今ならよく分かる。なのにどうして。一度、お見舞いに行ったときに
おじいちゃんが昏睡状態でみんなが耳元で「お父さん!目を覚まして!」とか
「オヤジ!!起きてくれ!!」
弟が「おじいちゃん!!○○やで!!起きて!!」などと
言っても一切何の反応も無かったのに
私が「おじいちゃん!!○○やで!!起きて!!」と言ったら
パチッと目を開けて意識が戻った事があった。父は
「やっぱり孫の力ってすごいなあ」と言っていたこと。
 おじいちゃんはもう自分の最期を悟っていたようで、
私に泣きながら「○○、変な男につかまるなよ」と言ったこともあった。
 本当に最後に見た生きている姿は・・もう言葉は発せられなかった。
「またくるからね」と言ってうんうん、とやさしく笑顔でうなづく姿。
あの時も友達との約束があってサササと帰ってしまったっけ・・
思えばそれが最後って一体何なんだろう、私は。

 今、過去に戻れるなら自分にきつく言いたい。
こういう事になるんだからちゃんと孝行しておけ!
お見舞いもきちんと心を込めて行きなさい、いなくなってから
こうして後悔したって本当にどうしようもないんだから!!

 昨日は父にはこの事をどうしても話したくなく、私は
お風呂に入っている間にすすり泣いた。そしていつも大体その間に
父は寝るので母に話した。泣いている私に母は
「まあねえ・・・でも大体どこでもおじいちゃん達の気持ちと
孫の気持ちって温度差があるのよ。おじいちゃん達はあんた達のことを
かわいくて仕方なくても、あんた達は友達とかいろいろなプライベートな
事の方にどうしても目が向いてしまう。仕方の無いことよ。
今、おじいちゃんに対してそう思っているだけでもいいじゃないの。
これからはその分、生きているおばあちゃん達にいろいろ
してあげたらいいのよ。そんなに気にやみなさんな」

 と言ってくれた。とはいえ、近くに住んでいたので
遠くてなかなかできない人は仕方ないけれど、よく
今度とまりにおいで、一人でおいで、と言ってくれていたのに
一度も行った事が無かった。
 いつだっておじいちゃんに会いにいけば満面の笑みで
帰るまでそれが途切れることはなかったのに。
敬老の日も何もしていないし、何一つプレゼントもしてこなかった。
いろいろと考えれば考えるほど自分に腹がたち、おじいちゃんに
対して謝りたい、出来る事なら今、何か喜ばせてあげられる
事をしてあげたいのに。

 おじいちゃんのことについては私はきっと一生後悔し続けながら
生きていかないといけない。

 おじいちゃん、本当にごめんなさい。
今もおじいちゃんのことを思うと涙が止まりません。
その分おばあちゃんを大事にするので許してください。
本当に本当に私はちっとも優しくない孫でした。
 

ミーハー病発症・発熱中

hamarishow2009-06-23

 GWに見たハゲタカ アンコール。
超イイ〜!!大森南朋さんて初めて聞いたんだけどイイ!!
柴田恭平もあぶない刑事とはまた違っててイイ!!コケた顔もシブイぜ!
映画見に行かなくては。

 東方神起!!カッコよすぎるーー!
韓流の風は私には吹かないと思っていたら・・
遅ればせながら突風が・・・
 みんな180cmあたりをうろうろしてて細身で映える・・・(萌)
歌唱力もバツグンだし。
歌は『どうして君を好きになってしまったんだろう』が
好きかな。でもプロモのあのドラマはい、いらない・・・
ダンス・プロモがカッコいいのが『Purple Line』
イカすわー!ユンホが一番カッコいい。
 でもバラエティでのトークがすっごく面白くって
それが一番好きかも。ジュンスのオヤジギャグ好きな所がラブ☆
 呪文-MIROTICの歌詞が何か好き。
自信満々なオトコな感じがする。
これってカッコいい人がいうと「キャ!!」だけど
オゲゲッ!!みたいなのが言ったら「はぁ!!?」やな、とか
余計な事を考えていたりするので、ハマり方が甘いのかしら。
プロモを見れば見るほど、歌を聴けば聴くほどハマっていく1曲。
 
 こうなるとハングルの歌も聴いてしまう・・・
歌詞を見ると・・・意味ところか、読、読めない・・・・
呪文ていうか暗号って感じ・・・

 狂った私は彼らのプロフィールなどを公式HPはおろか
恥ずかしげも無くウィキにまで見に行くのでした。
そこで自分よりはるかに若いことを知り、己のバカさ加減に
鼻で笑ってしまったのでした。

 でもそういうの調べれば調べるほど疑問が。
いつまでたっても解消されない。エンドレスだ・・・


 こうしてまた時間が過ぎていくのでした。

ふんどしをしっかり締め直します。

今日はネイルサロンの予定。
早く着いたので、心斎橋をふらふらしておりました。
ぼーっと歩いていると目の前に一つ下の会社の女の子が!
いつものスーツ姿とは違いかわいい格好。
元々私とは好みの系統が全く違うけれど、
とても似合っていてかわいかった。

 それにひきかえ、わたくし・・・
どうでもいい服を着てました。通勤時みたい・・
しかも靴も通勤用の黒パンプス。
友達相手ならいいけど、毎日これを履いて行っている
会社の子に見られるとはーーー!

 その子は頭のてっぺんから足の先まで
チェックしていた。目を見てたらわかりすぎるくらいわかった。
「見すぎだよ!」と思った。私は私で自動的に・瞬時に
「誰といるんだ?メンズか?」と見たけれどお互い一人だった。

 すぐに「バイバイ」としたけれど、
プライベートでイケてないヤツを演じてしまったーーー!!
やっぱりそんなに会うこともないけれど、こういうこともある。
普段から気を抜かずキレイにしておかねば!と思った日でした。

お見合い話がとうとうきちゃいました。

私は医者・薬剤師の親戚が多いです。
この春もいとこが薬剤師として社会に旅立ちます。

 去年、おばあちゃんの弟(おじさんでもないし何だろう)と
28歳にして初めて会った。おばあちゃん7人兄弟が
年に一度日本のどこかに夫婦連れで集まり、
旅行をする兄弟会に母と私も参加した。そしてこの
弟に大変気に入られたようで。
そのおじさんも福岡で医者をしている。

 おじさんの奥さんが「医者の中に誰かいい人いないの?」
などと私の前で堂々と聞いていた。
「うーん、うちは早くに結婚してる人が多いからなあ・・・」

内心「ちぇっ」

 そんな話があったらあったでイヤなくせに。

 そんなこないだの年末。
会社から帰宅すると明らかにおばあちゃんと電話をしている母。
会話の感じや口調でわかる。
ん・・・?何かあたしのこと言ってる?

 どうやらおじさんの友達の息子が一人なので一度
お見合いしてみないか?という話があり、
おばあちゃんが電話してきたらしい。

 その彼。
30歳銀行員(地銀)福岡在住 母他界

 条件的には申し分ない。ただ福岡にすまなければならない。
それは・・・しかしぶっちゃけお姑さんがいないのはうれしい。。。
す、すいませんすいません・・・でも女兄弟もいない様子・・・

 でもでも親や親せきにいろいろ知られるのって
何かイヤだし・・・

 そういうウダウダ考えているうちに
年をとってそんな話もなくなってくるのかなあ・・・

 福岡には住みたくないから、と断ってもらいましたが・・・

 世の中のみんなはこういう話、やっぱり受けるのかなあ?

【エ】今だから思う事なんだろうけど

 私は2人の弟がいる3人兄弟。
下の弟は9才下で、私が小学3年生のころに生まれた。
何を思っていたのだろうか。3年生の私は弟の生まれた
平成元年5/25の翌日。先生が入ってきて朝礼前に
学級委員の「起立!!」でみんながバッっと立ち上がった中を
前にスタスタスターと早歩きして先生の前に立った。

 先生は朝一番に私が何か困りごとを言うと思ったようで
「何?」とあからさまにイヤそうな顔をした。
私は「昨日弟が生まれました」
先生はパッと笑顔になり、「そうかおめでとう!!」
そして大声でみんなに
「昨日○○の家に弟が生まれたそうです!みんな拍手!!」といって
みんなに拍手してもらった。今思えばなんだろうか、その私の行動は・・・

 弟は相当に甘えん坊だった。今でも本質的には全く変わらないけれど、
小さい時はもっと恥ずかしげもなくベタベタする子だった。
特に母に。ひっついてはなれない。口には絶対にしないけれど、
腕やほっぺなどによく「チュー」としていた。

 私がリビングでふとんに入っておバカなバラエティなどを
見ていると、モゾゾとすぐに弟は入ってきた。
いやがらせで「あかーん」とかいいながら弟部分だけ
ふとんをはぐと、「イヤ!!」といって笑顔で果敢に入ってこようと
奮闘していた。そして2人でテレビを見てゲラゲラ笑っていた。
弟が一緒に見ていると、同じ内容でも倍以上、本当に何倍何十倍も
面白くなるので、一緒に見るのが大好きで楽しかった。
今でもそれは変わらない。弟がかわいくてかわいくてしかたないのは
今も昔もこれからもきっと変わらない。

 変わったのは弟。
成長という名の変化。
私がうつぶせのような格好で雑誌などをゴロゴロしてみていると
よく上に乗っかってきたりした。親亀・小亀みたいに。
それを左右に揺れて振り落とし、「へっへっへー」
すると弟は勇猛果敢にまた乗ってくる。何度も繰り返すと
次こそは絶対に落とされまい、としがみついてきた。
なのでこちらも左右どちらかだけを地上に残し、
どちらかを空中に。斜めに体を固定させ、落とす作戦に打って出た。

 最初のころはよかった。弟も小さく軽かった。
ところが小学校4年を過ぎたあたりだろうか。
定かではないけれど、明らかに重くてそれを何度もされるのが
辛くなってきた頃があった。最初は「へへへー」という感じで
くる弟にしんどい私がついに「もう!!さっきから何回も!!
重い!!」と怒った。怒ってひるむようなかわいいモンじゃないので、
けれども体の半分を床につけて、半分だけ私にのっかる、ということを
したりしていた。あの頃はそれがちょっと毎日毎日うっとうしかった。

 今はもう絶対にそんなことありえない。
19歳の弟が28歳の姉にそんな事をしていたらちょっと目を疑う光景。

 でもなんだかそれが無性に懐かしく、素敵な時間であったように思え、
今は私の記憶の中で輝いている1ページ。
そしてあんなこと言わなきゃよかったな、という後悔の念がある。
あの頃はそう思えなかったけど、今戻れるならもっともっと
弟をかわいがってあげたい。

骨折の辛さは痛さのみにあらず

 骨折したことのないみなさん、
骨折はギブスをして骨がつながったら終わりだと思っていませんか?

 実は私もそう思っていました・・・が違うのです。
私は『骨折』というものが人物であるならば相手取ってやりたいくらいです。

 まず、翌日出勤すると「え!!どうしたん!!?」や
「大丈夫?」などギブスに三角巾の私を見てみんなが言って来ます。
最初はいいのです。でも何度も何度も言われると
なにやらてれくさくなってきます。めんどくさくもあります。
 三角巾は想像よりも首と肩に負担がかかりました。
痛くて痛くてパンパン。1週間はちょっとしたことでビキビキッと
痛みが走ってたまらないのではずせませんが、10日くらい過ぎて速攻
三角巾に別れを告げました。

 お風呂も大変。左腕にゴミ袋をかぶせ、ヘアゴム4本くらいで
とめて入りました。すべて右手だけで洗う。そうすると右の背中や肩、
脇は洗えません。オフロイスに座った状態で右足ひざ上あたりに
タオルを乗せ、肩などをなすりつけるように洗っていました。
メイク落としも洗顔も、何もかも右中心の生活。1週間で左右の
腕筋肉の差が歴然としてました。全裸でポパイのように
力こぶをつくろうとすると右腕はたくましいのに対して
左腕はしーんとしています。何の盛り上がりもありません。
オジイチャンの腕、と比喩するのが一番わかりやすいです。
両親・弟・友人にもさわり比べてもらいましたが、
あまりの差に笑いながら驚くという反応が1人の例外もなく見られました。

 そして同じ頃、湯船に使ったり体が熱くなってくると
ギブスの下の皮膚が針でちくちく・ちくちくとされているような
痛み・かゆみが同居する感覚が襲ってきます。
1ケ月後にギブスを取って判明したのですが、思いっきり赤く
かぶれていました。無数の赤いてんてんが私の腕にありました。

 痒いのにとっても痒くて辛いのに掻けない地獄。
痒くて痒くて辛抱ならないのです。でも細い棒も届かない。
第一間接からひじ上までがっちりガードされていましたので・・・
そしてとても重い。寝苦しくて寝苦しくてしばらくちゃんと寝れませんでした。
重いので左を下に寝るしかなく、体のゆがみが、体のゆがみが、と
精神的苦痛も強いられました。

 でも何より私が悩んだのは臭い・・・
だんだん自分の手のひらから足の裏のような香りが漂ってきます。
手の届く範囲は一生懸命に洗っているのに、どうしても抗えないのです。
その臭いは日を追うごとに熟成されてきます。消毒液をつけた
コットンでふきとると黄色い皮膚がのぞーっと出てきます。
でも香りは一向に薄まる気配もありません。
だんだん足のような香りから納豆的なものへと発展を遂げます。
とくに鼻の近くに手を持ってきてクンクンしなくても
ふぁっと自分の前に手が作った風が吹くと「げっ!!」となります。
そよ風のようなそのやさしい風は納豆のにおいです。
あけたばかりでなく、箸でこねてこねてこねつくした芳しいアレです。

 誰も多分気づかないけれど、自覚してしまっていると
寝てもさめてもそればかりが気になりました。

 1/6に手のある部分が痛くて痛くてしかたなく、
見えない恐怖から病院へ行きました。予定より2日早く
ギブスをはずしました。自分の腕とは信じがたいものでした。

 じゃがいもが古くなると表面の皮がしわしわになりますよね?
あんな感じで、皮膚もめくれているところがあったり、
上記の赤いてんてんが無数にあったり。左右比べると
同一人物の腕とは思えない。そしてくさい。
ガリガリだし。

 なにより筋肉が衰えきっていて
自分の腕をささえきれないのか、骨折じゃない痛みがものすごい。
私は治りが遅いようで、そのギブスの長さを少し短くし、
下半分だけを今は包帯で固定している状態。
お風呂の時のみはずしてよい。
 でも本当にいたい。何もしていなくてもいたい。
でも、上下の動きは耐えれるけど、横の動きをしようとすると
激痛がはしる。


途中 だけど
お母様にお風呂にはいりなさいっておこられちった♪
あとでまた追記しよーーっと。

追記(3/1)
 その痛みも未だに無くならない。
ギブスはとっくにとれたけど、しんどい。これ、後遺症じゃないよね?
一番辛いのは腕を上に反らすような形。
例えば机に腕をついて体重をかける、あの形。
痛くてできない。クセでしそうになるけど、痛くて
「いたっ!!」となってできない。
はあ。。。骨折しないようにきをつけなきゃ・・・